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[特集]ふくおか交響曲

特集ふくおか交響曲

「合唱王国」と九響の誕生
■二人の指揮者
 終戦後の福岡で、数々の合唱団が誕生し、コーラスは隆盛をきわめた。やがて行われる合唱の全国大会では、福岡代表の合唱団が常に上位を占めた。「合唱王国・福岡」──中央の音楽関係者たちは、賞賛を込めてそう呼んだ。こうした隆盛の背景には、すぐれた指導者たちの姿があり、その中には九州交響楽団(九響)の結成に尽力した人たちもいる。ここでは福岡の戦後音楽史を彩った人々を紹介していこう。
 福岡の音楽界をリードした一人に、森脇憲三(大正5〜平成8)がいる。戦後、森脇は福岡放送合唱団を中心に結成した「福岡交声会」の指揮者となり、交声会は昭和21年に作られた西部合唱連盟の「西部合唱コンクール」混声の部で第1回、第2回の優勝をさらった。森脇の指導者としての名声は日増しに高まっていった。
 そのころ、福岡の音楽界に颯爽と登場した音楽家がいた。後に全国で名を馳せる指揮者の石丸寛(大正11〜平成10)である。石丸は大正11年、中国の青島で生まれた。先の西部合唱コンクールでは石丸率いる「西南学院グリークラブ」が、こちらは男声の部で第1回と第2回の優勝を遂げている。また、同年、石丸は九大フィルの定期演奏会でオーケストラデビューを果たした。
 
■王国の担い手たち
 昭和23年、東京で第1回目の合唱コンクール全国大会が開かれた。このとき学生の部で1位に輝いたのが福岡県立高女(現・福岡中央高校)である。指揮者は米倉美枝。指導力では森脇・石丸にも引けを取らない実力者だった。米倉は後にRKB女声合唱団の指導者として活躍する。
 第1回の全国コンクールでは、福岡の「フィルハーモニック・ソサイエティ」も一般の部で3位に入賞している。この年に設立された、石丸が指揮する合唱団だった。
 合唱コンクール全国大会はこの後毎年開催されるのだが、福岡の合唱団が全国大会で入賞したケースを一つ一つ書き出していては、それだけで紙数が尽きてしまうほどだ。森脇憲三、石丸寛、米倉美枝、安永武一郎、福永陽一郎(後の藤原歌劇団指揮者)など、やがて日本中に名声が鳴り響く音楽家たちが、競い合うように合唱団を指導していた。
 あたかも戦国時代のようだった福岡の合唱界は、昭和25年に統合期を迎えた。一方ではフィルハーモニック・ソサイエティとコール・オルフォイスのメンバーが石丸を中心に「福岡合唱協会」を結成し、他方では福岡交声会を中心とする「福岡合唱団」が森脇のもとで誕生した。
  混声合唱の2大勢力である。西部合唱コンクールでは昭和25年と26年に森脇の「合唱団」が優勝し、27年と28年には石丸の「合唱協会」が優勝した。いずれの年も全国大会では2位3位という成績を残している。“森ケン・石カン対決”といわれた時代だ。
 当時「合唱協会」の創立に加わり、現在は九響で事務局長を務める漆原昌久さんは、森脇・石丸の両者を次のように対比してみせる。
 「森脇さんはいわば官学派で、理論的ながっちりした音楽を追求した人。石丸さんはリベラル派で、黒人霊歌やポップスを自ら編曲するなど、斬新な発想と洒落た音楽センスを持っていた。この2人の対照性が、福岡の合唱界を華やかに彩ったといえるでしょう」
 
■時代の終わり
 福岡が合唱王国と呼ばれた時代は、昭和30年代の初頭で幕を閉じた。全国的に合唱のレベルが上がり、福岡代表も簡単に上位に食い込むことはできなくなっていた。
 東京へ進出した石丸は、フリーの指揮者として華々しい活躍を続けた。自ら企画したテレビ番組「題名のない音楽会」、初心者も参加する「国技館五千人の第九」、福岡での「8000人の第九」などを通じて、クラシック音楽の普及に努めた。「福岡の音楽界、そして九響をこよなく愛した人だった」と西日本新聞記者として福岡の音楽会を見守ってきた吉田浩さん(現在は那珂川町立ミリカローデン館長)は振り返る。平成6年にはガンの宣告を受けたが、石丸はそれまでの生き方を変えようとはしなかった。亡くなる前年の平成9年には福岡で「石丸指揮塾」を開講した。
 一方の森脇の功績を語る場合、忘れてはならないのが作曲家としての一面だ。彼が残した曲は合唱曲57、オペラ・オペレッタ曲15、校歌や社歌は180にものぼり、特に女声合唱曲では全国的に高い評価を得ている。また、作詞者・持田勝穂とのコンビは有名で、28年にはカンタータ(交声曲)3部作で西日本文化賞と福岡市文化賞を受賞した。
 平成6年には福岡市に贈る「カンタータ・福岡」のオーケストラ版を完成させたが、その演奏会が開催されるのを待たずして、平成8年に急逝した。晩年、森脇は人に「石丸は東京へ出た。俺は地方に埋もれてしまった」と話していた。だが、森脇が福岡から発信した数々の名曲は、今でも各地の合唱団で歌い継がれている。
■「福岡にオーケストラを!」
 このころ、福岡のクラシック界にエポックが訪れる。九州交響楽団(九響)の創設である。
 「福岡に本格的なオーケストラを作りたい」という石丸の希望に応え、当時西鉄に勤務していて、石丸と懇意だった森部静武(のち九響専務理事)がこれを実現するべく奔走した。
 九響の第1回定期演奏会が開かれたのは昭和28年。ところが、九響の誕生を見届けた後、石丸は活動拠点を東京へ移してしまう。その後の九響を支えたのが森部であり、常任指揮者を務めた森正と安永武一郎(大正11〜平成10)だった。
 安永はすぐれた指揮者であり、ピアニストであったが、それ以上に彼の政治的な手腕を評価する声は多い。九響初期の苦難の時代を、安永の手腕が支えたという評価である。安永は福岡教育大学長、大分県立芸術文化短期大学長などを歴任し、昭和55年には福岡市文化賞を受賞している。
 昭和28年に結成された九響だが、技術的にも資金的にも低迷する時代が長く続いた。この流れに終止符を打ったのが“プロ化”だった。九響は昭和48年、念願のプロオーケストラに脱皮する。翌年には岸辺百百雄をコンサートマスターに迎え、昭和51年にはドイツ人のフォルカー・レニッケを常任指揮者に加えた。
 前出の吉田さんは、そのころの九響をこう語る。「初期の九響は、正直に言って下手だった。それがプロ化に踏み切り、一流の音楽家を迎えるようになってから、見違えるように力をつけてきました」
 九響の活動は目に見えて活発になっていった。年10回の定期演奏会のほかに、小・中・高校生を対象とした「移動音楽教室」、自治体や企業の依頼を受けての依頼演奏会などが精力的に行われた。福岡、そして九州の音楽界をリードする現在の九響は、このような経緯で発展を遂げてきたのである。
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