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[特集]淡海三代と博多の笑い
淡海三代と博多の笑い
博多淡海の登場
「博多淡海」という三代にわたる喜劇役者の系譜がある。ニ代目と三代目は東京・大阪で活躍するが、初代の淡海は博多の芸人──いわゆる「にわか師」だった。
 にわかという芸能は、江戸時代中期から明治にかけて、京都、大阪、江戸吉原、博多などでかなりさかんに行われていた。大正になると、京都、東京ではほとんど姿を消し、大阪と博多、肥後にわかなどがわずかに残った。大阪では、にわかという芸態こそ廃れたが、喜劇王と呼ばれた曾我廼家五郎と兄の十郎、渋谷天外、藤山寛美などの人情喜劇を生む母胎となり、また吉本興業のような笑いの王国を生む契機となっ た。かつての博多にわかは、大阪に次ぐ賑わいを見せていた。
 
 博多にわかが盆行事の一環として行われていたのも、大きな特徴だ。昔から博多では盆踊りがなく、お盆の時期にはお寺の境内では各町内で素人の愛好者によるにわかが競演された。いかにも芸事の好きな博多の年中行事といえる。

 加えて博多にわかは半面をかぶるという独特の特徴を備えている。博多にわかの半面の起源は、明暦年間(1655〜57)までさかのぼると伝えられているが、その隆盛がはっきりとしてくるのは、天保のころから。町人の台頭を背景にしたもので、半面による匿名性のもとに、風刺や皮肉を言いやすくしたものだ。

 風刺や皮肉の精神は、明治の新しい体制のなかでさらにのびやかなものとなっていく。明治12、3年ころに最初の博多にわかの組として鬼若組が結成された。書生仁和加の一座をつくり、新派の祖となった川上音二郎。彼の父も、この鬼若組に囃子方として参加していた。鬼若組に続き、次々に組が誕生していく。造り酒屋の旦那衆の竹田組、博多織屋の麹屋組など、商家の旦那衆や職人たちによる素人芸は明治の中期から後期にかけていよいよ盛んになっていった。
 
 その素人芸人の中に、後に「博多淡海」を名乗ることになる木村平三郎(明治28〜昭和38年)がいた。もともとはにわか好きな大工職人だった彼は、大工仕事のかたわら、祭りがあれば出ていって博多にわかを演じていたらしい。天賦の才能があったのだろう、平三郎の芸は次第に周囲の評判を呼んでいくことになる。特にとぼけた味の演技には定評があった。やがて平三郎は大工をやめ、一座を率いてあちこちの小屋を巡るようになった。いわゆる職業にわか師である。昭和25年には大阪の芸人・志賀廼屋淡海から芸名を譲り受け、博多淡海を名乗った。プロになった以上、匿名性を守る「半面」は必要ない。博多淡海は半面をはずし、素顔で演じたにわか師となった。

 淡海劇団は引く手あまたの状態だった。地元博多は言うまでもなく、筑後地方や熊本の掛け小屋まで出向いていく。特に甘木地方では、淡海の人気は絶大だった。当時は月に10日も仕事があれば充分に食べていけたというから、優雅な暮らしである。

 そして23歳という若さで淡海劇団を引き継いだのが、息子の木村平蔵(昭和5〜56年)だった。平蔵は6歳の頃から舞台を踏み、博多で人気者となっていた。父・淡海もその才能に刮目していたにちがいない。この平蔵が、後に藤山寛美とのコンビや新喜楽座の座長として全国に名を馳せる、二代目博多淡海である。そして淡海の芸人の血は、吉本新喜劇で座長を務めた人気コメディアン・木村進(三代目博多淡海)へと受け継がれていく─。

 今回の特集では、博多にわかを出発点とした三代の喜劇役者・博多淡海にスポットライトを当てながら、博多の「笑い」の精神に近づいてみたい。
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