財団機関誌 季刊 wa
[特集]淡海三代と博多の笑い
喜劇役者三代を語る
木村進さんインタビュー
 ぼくが高校をやめて父の劇団に入ったころ、父はすでに「博多淡海劇団」を率いて各地を回っていました。高校をやめたことで父にはどやされました。「おまえには役者なんてしきらんめえもん」と。「これからは俺を『お父さん』とは呼ばれんで、『先生』やで」とも言われました。ただ、父も内心は嬉しかったんじゃないかな。息子が自分の跡を継ぐわけですから。
 二代目淡海のもとで、16歳の木村少年は役者としての力をめきめきとつける。次第に難しい役柄も与えられるようになった。
 
 17歳の時に父から「博多小淡海」という芸名をもらいました。稽古で父から演技を教えてもらうことは一切ありませんでした。見て盗むんです。父も同じで、祖父の芸を見て覚え、それを肥やしにしながら自分なりの芸を磨いていったんだと思います。
 
 明治から昭和初期にかけて博多にわかは隆盛を極め、その中から職業にわか師が生まれたが、初代淡海もその一人だった。本業の大工をやめて一座を結成し、博多だけでなく熊本や筑後に出かけていった。
 
 ぼくはおじいちゃん子でしたから、祖父のこともよく覚えています。役者としては、とぼけたおじいさん役が上手かった。父はそういうとぼけた芝居が苦手で、「やっぱり初代には勝てんな」と言われたり、ずいぶん悔しがっていましたね。でも、だからこそ父は正反対のキャラクター──元気がよくてベラベラとしゃべるおばあちゃん役を、自分のものにしていったんです。

 二代目淡海は20歳の若さで淡海一座を引き継いだ。昭和36年には東京進出を果たし、正座のまま1メートルほども跳び上がる独特の芸で一躍有名になる。その後、松竹新喜劇の藤山寛美に招かれ、彼の相手役として活躍。大阪・角座の座長にも就任した。

 東京進出の際は父もかなり悩んだようです。とにかく博多弁が通じないから、受けがとれない。だから父は、動きで笑いをとるしか仕方なかった。おばあさんの格好で正座のままピョーンと跳ぶ芸は、そういう苦しみの中から生まれました。方言のハンディを乗り越え、ピョーンの芸で一世を風靡してしまったのだから、やはり父はすごい役者です。
 

 木村さんは19歳の時、父親に黙って劇団を抜け出し、吉本新喜劇へ身を投じた。

 父はものすごく憤慨していたそうです。ただ、当時のぼくは“親の七光り”という言葉が気になって仕方なかった。自分の力だけで勝負したかった。吉本では7回も門前払いを食らいました。8回目に淡海劇団で培った踊りやチャンバラをやって見せたら、相手の人が支配人を呼びに行って「こいつ、使えまっせ」と言ってくれました。

 病気になった先輩の代役を足がかりに、木村さんは新天地でも徐々に頭角を現していった。コンビを組んだ間寛平とのドツキ合いに、観客席は沸いた。23歳にして吉本新喜劇の座長というスピード出世だった。

 
 テレビのレギュラーがどんどん増えて、多いときは月に60本の番組に出演していました。寛平ちゃんとの舞台はいつも真剣勝負。手加減抜きの殴り合いをしたり、舞台中を暴れ回りました。そんなハードな舞台を、二人とも楽しみながらやっていました。
 
 昭和62年、木村さんは三代目博多淡海を襲名する。翌年に行われた襲名披露公演は、東京、大阪と進み、11月に行われた九州公演の直前、木村さんは脳内出血で倒れてしまう。手術後も左半身の麻痺は残り、木村さんはリハビリ生活を余儀なくされた。

 まるで立つこともできない。死のうと思ったこともあります。車椅子で外へ出ると、以前のぼくを知っているおばちゃんが「可哀想にねえ」と同情する。家にこもっていると「木村進はもう死んでる」っていう噂が流れる。その時期は本当につらかったです。
 
 今、木村さんは復帰への道を着実に歩んでいる。平成9年に結成した「木村進劇団」は、現在、全国の福祉施設や病院を回り、木村さんの講演とコントを披露している。初代、二代、そして三代。活躍する場や表現方法は違っても、「淡海」はそれぞれの時代に笑いを振りまいてきた。では、彼ら淡海に通底する芸とは何なのだろうか。

 父はよく「芸人が笑ろうちゃいかん。客を笑わすんや」と言っていました。真面目に舞台に取り組む中で、咄嗟に出てくるギャグが面白いんです。いわゆる即興ですよね。博多にわかの中に「一口にわか」という即興ものがあります。にわか師だった祖父はもちろんですが、父の芸もそこから出発しているような気がします。状況に応じて反射的に演技を繰り出していく。もしも台本に用意された台詞をしゃべるだけの芝居だったら、父の芸はあそこまで光らなかったと思います。
博多にわかの基礎知識
博多言葉と地口オチ
はしご酒(三浦実作)
「テーガッテーナ、またあんたのはしご酒が始まったが、さぞかしごりょんさんの帰りが遅かて、やかましかろなー」
「ぞうたんのごと。あたきん方はどげん遅う帰っても、ご飯の用意バしてちゃんと待っとるやねー」
「へー、こらァ見直した。どうした、かかさん教育の徹底しとることかいな」
「そりァあんた、大体はしご酒のことじゃケン、うちに帰りゃ午前(ご膳)になる」


 「博多にわか読本」(井上精三著・葦書房)に掲載されている博多にわかの一編だ。「にわか」には「俄」「仁和加」などという文字が充てられる。即興性を重んじた民衆の芸能で、江戸時代から博多・大阪・江戸吉原などの都市で盛んに行われていた。  博多にわかには、一人で演じる短編の「一口にわか」と芝居仕立てで長編の「段物にわか(劇にわか)」とがある。いずれもコテコテの博多弁を駆使し、「地口(じくち)オチ」(同音異義語の言葉で落とす)で締めるのが定石だ。
 「テーガッテーナ」という言葉は、博多にわかの冒頭で使われることが多い。福岡地方史研究家の故・井上精三氏は、「博多に強くなろう!」(葦書房)でそのニュアンスを「びっくりしたときの表現」と説明している。
 
にわかを守る人々
 この博多にわか、どのような起源でいつから始まったのかというと、これが定かではない。播州で行われていた「悪口祭」を起源とする説、盆踊りが転化したとする説などさまざまだ。しかしいずれにしても、笑いやユーモアを愛する博多町人たちによって博多にわかが受け継がれ、発展してきたことに変わりはない。それが明治・大正期に全盛期を迎えたのは、特集最初のページで紹介した通りである。
 博多にわかの伝統を守り、次代に伝えていこうとしているグループが「博多仁和加振興会」だ。現在のメンバーは105人。今年で35回目を迎えた「盆仁和加大会」をはじめ、博多どんたくや博多祇園山笠などでも博多にわかを披露しているので、興味がある人は足を運んでみるといいだろう。振興会の副会長で仁和加てつどう(手伝う)代表幹事の納冨寛さんは、「最近では小学生や若い女性でにわかを勉強する人が増えています。こうした傾向がこれからも広がっていくといいですね」と語っている。
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