| [特集]淡海三代と博多の笑い |
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| 愛蔵している吉本新喜劇の舞台中継のビデオには、三代目博多淡海(木村進)の真骨頂がうかがえます。三代目博多淡海は、正座したまま、ピョーンと飛び上がって床にストンと降りてくるばあさん、二代目博多淡海の息子です。二代目は、博多にわかの世界にははまりきれないほどの才能を持ち合わせていました。東京の舞台で、博多弁が全然分かってもらえず、座ったままピョーン飛び跳ねる体の芸をあみ出しで喝采を浴びたわけです。まさに即興の身体芸。そのまま続けていけば、全国区のコメディアンとして定着していったのかもしれません。二代目は、晩年、藤山寛美に呼ばれて松竹新喜劇で活躍しました。ところが、酒で稽古に穴をあけ、新喜楽座を解雇。五十歳の若さでなくなりました。 木村進は、十九歳で父の劇団を飛び出し、吉本興業に入り、急速に頭角を現します。長らく吉本新喜劇の看板として活躍したのち、昭和六十二年、三代目博多淡海を襲名しました。ところが、一年後、九州での三代目襲名公演のさなか、脳内出血で倒れたのです。 三代目博多淡海(木村進)は、二代目が果たせなかった夢を実現しかけたかに見えました。メディアを席巻している大阪の笑いでもなく、東京の笑いでもない第三のハイブリッドな笑いを生み出せる才能を持ち合わせていたのです。 博多にわかの可能性を行き着くところまで体現したのは、川上音二郎。素人芸から発展していった博多にわかは、いわば進化を義務づけられたような即興芸です。音二郎は博多を離れにわかの風刺や諧謔(かいぎゃく)を突きつめ、時事風刺からやがては政府批判など、どぎつい社会風刺へと突き進むことになります。音二郎と並んで博多を土壌として開花したにわかの可能性を示そうとしたのが、三代にわたる博多淡海なのです。 |
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明治三十年代後半、博多にわかの隆盛と足並みをそろえるように、浪曲が大流行します。にわかと浪曲という二つの芸能が同時に開花していたことは、博多にわかの笑いの本質を探るうえで、非常に注目すべきことです。浪曲を支持したのは、おおむね明治の新体制からはぐれていった武士を中心とした階層や困窮から離農せざるを得なかった都市生活者であり、にわかの黄金期をもたらしたのは、商都博多の勃興する商人たち。 例えば一世風靡した桃中軒雲右衛門の赤穂浪士という浪花節はリベンジの世界を描いていますが、まさに体制からはぐれていった人々が自分達の恨みを雲右衛門の浪花節に託していったともいえるでしょう。また浪花節の義理・人情という世界観は、濃密な農村的共同体の人間関係をモラル化したもの。土地を離れざるを得ない農村出身の都会生活者が好んで聞くのが、浪花節なんです。 一方、博多にわかは体制へのリベンジではなく、その権威を風刺や諧謔で笑いのめしてしまう自由さを楽しんでいたようです。生真面目に考えない軽さこそが精神をしなやかに保つ秘訣とばかりに、人間を必要以上に舞い上がらせる「ことば」をすり替えて、笑いで地上に引きずり下ろしてしまうのです。 |
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博多にわかの落ちの特徴は、同音異義語の洒落(しゃれ)ですが、フロイトはこうした言葉遊びの技法を経済の問題と指摘しています。最も効率の良い「ことば」の使い方は、二つの言葉を一つに節約すること。機知に富んだ言葉の経済活動です。なぜ大阪や博多などの商人の町でにわかが栄えたのかという疑問にヒントを与えています。にわかは、「ことば」の取り引きによって商業都市の理念を体現しているのです。最もうまく「ことば」を流通させた者が勝ち。言葉と言葉に重ねてひとつにして、その機知を競う。 商行為だから、にわかの落ちは、古くなってしまっては使いものにならないのは自明です。機知は、いまこの時に起きている出来事や現象に対して働きかける。対象が現実性を失えば、あてこすりも風刺も面白さを失ってしまうのです。極端にいえば一度かぎりの即興だから、にわかはおもしろいのです。 にわかは必ずしも伝統的なスタイルであらわれてくるとはかぎりません。伝統的なにわかのおもしろさは無条件に認めたいのですが、そこからはみ出た人々に、よりはっきりとしたにわかの精神が見えてきます。 |
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